歴史は韻を踏む
歴史は繰り返さないが韻を踏む これは、マーク・トウェインの言葉だ。まさにその通りで、歴史は決して繰り返しはしない。パラダイムシフトが起きるたびに僕たちの祖先たちは新世界に足を踏み入れてきたのだ。その証拠に、少なくともこの日本という国に、飢えで命を落とす人はほぼ居なくなっている。これは、2度の産業革命の末に可能になったことだ。もちろん、それまでに幾つかの戦争が起きていることは真実だが、それでも150年前の世界と現在では、人々の見ている景色も全く違うし、150年前の人たちと現代人の考え方などをお互いが真に理解し合えるのかどうかも怪しい。 それほどまでに、異なる状況にあるにも関わらず僕たちは次の産業革命に片足を突っ込んでいる。そして、それは漏れなく150年前の大変革の韻を踏んでいる。この韻を踏むという、歴史の統計的な性質が、僕たちから「西郷どん」の世界観への共感を引き出すのではないだろうか。 とは言え、次の革命は流血を伴わない可能性が高い。僕たちはうまくやっていけるだろう。明治維新の際、江戸城無血開城は成し遂げられたが、戊辰戦争は起こった。だが、今回は上手くやれるはずだ。歴史は韻を踏むが、繰り返すわけではない。僕たち人類は少しずつ良くなっている。いや、これは控えめな表現だ。第一次産業革命以降、僕たち人類は格段に豊かになった。もちろん、それは個々人の幸福と完全に一致するわけじゃない。それでも、先進国の中間層の人たちが、ある意味で中世の王家もりも豊かな生活を送れるようになったのは間違いのない事だ。
そして、僕たち人類はまだ進む事をやめていない。僕たちは単なる快楽の世界ではなく、ミレニアル世代的な(もしくはもっと若い)価値観を核とした時代をこれから創り出していくだろう。それは、よりフラットさを増し、ティール組織的なものになっていくだろう。 しかし、僕はそれを成し遂げるためのマイクロ資本に関して、「失われたリンク」を未だ見出せていない。感覚的に、そちらの方向に行けば何かがあるのは分かるのだけれども、何があるのか具体的には見当がつかない。マイクロ資本を蓄積するための具体例が、仮想通貨のマイニングしかないなんて、あまりにお粗末だ。 20世紀の産油国で何が起こったのかを調べることは、あるいは有意義かもしれない。そこには何か隠された真実があるのかもしれないし、単なる反面教師的な教訓を得るだけかもしれない。いすれにしても、何かしらの糸口をつかめるのではないだろうか。 産油国の事例は、反面教師的 産油国であるサウジアラビアやカタールなどでも、ベーシックインカムは実施されていない。しかし、所得税を徴収されなかったり、教育は無料であったりと、一般市民も生活しやすい条件であるそうだ。しかし、教育の質が低いこと、オイルマネーが分配されることにより勤労意欲が低く失業率が極端に高いという問題点が挙げられる。 うん。反面教師的な事例が見られたね。蛇足かもしれないけれども、ベーシックインカム的なものとライフロングキンダーガーテン的なものは分けて考えない方が良いのかもしれない。 いや、もしかしたら僕はまたしても表面的なことに囚われているのかもしれない。失業率という数字から、遊び呆けている人々を想像してしまったけれども、もしかしたら彼らは遊びを極めた人たちだという可能性もある。高度に遊びを極めることは、ある意味で価値を生み出すこともある。そして、そういう側面は往々にして統計から零れ落ちる。そういうものだ。いすれにしても、これは僕の妄想でしかないし、二次情報から得られるものというのは往々にしてそういうものだ。 糸口を掴むのに、一番確実なのは一次情報を得ることだ。なかなかハードルが高いぞ。でも、仮説の精度を高めるには、必要なことだ。さて、どうしたものか。
(つづく)